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2009年4月27日 (月)

宮淑子(2008)『先生と生徒の恋愛問題』新潮新書(2208.11.20初版発行)

Dsc07622腹巻きから引用
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わいせつか?
純愛か?
学校という聖域での最大のタブー!
当事者たちが明かす禁断の恋の顛末!!
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表紙カバーから引用
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勉強や部活から将来の不安まで親身になって相談に乗ってくれた担任の先生。進路から家族のことまで心配してくれた優しい女教師……聖職者と思春期の生徒は、なぜ恋に落ち、どのように恋愛を発展させたのか? わいせつ行為で処分された先生や年齢差を乗り越えて結婚したケースなど、当事者たちの生々しい言葉からタブーの実相に迫る!
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●「いまの報道では、教師の「わいせつ行為」と「恋愛」を同一化した教育委員会の発表が新聞などの活字やテレビのニュースになるから、実態はどうだったのか、本当は当事者に質してみないと判明しないことが多いのではないか。性犯罪やわいせつ行為の被害者としてではなく、むしろ、恋愛の当事者として女性との側の真意を聴いてみないと、実相はわからないのではないだろうか。」(23頁)という目的でインタビューを行っている。


●「本書の執筆動機の一つは、スクールセクハラが社会問題になってきた現在、混沌としている恋愛との境界線、境目をはっきりさせることであった。ところが取材をしてみると、そう明確にできない部分があることがわかった。最後に問題点を整理してみたい。」(198頁)
として下記の6点を挙げ、それぞれで異なる立場・意見が存在するとしている。
 「(1) 教師と生徒の「恋愛」そのものを許すべきか否か――」(199頁)
 「(2) 性的行為は「許されざる非行」か――」(200頁)
 「(3) 結婚は必要条件か――」(201頁)
 「(4) 第三者の判定は可能か――」(202頁)
 「(5) 「わいせつ行為の認定は可能か――」(202頁)
 「(6) 妥当な処分はどのようなものか――」(203頁)
 
 
●アメリカの大学のセクハラのガイドライン
 「「ニューヨーク市立大学 セクシュアル・ハラスメント・ガイドライン」の中に、「合意の関係」という項目があり、こんなことが書かれているので、『キャンパス・セクシュアル・ハラスメント――調査・分析・対策』(渡辺和子、女性学教育ネットワーク編著、啓文社)より引用しよう。
  (中略)
    したがって、教職員や学生に対して、職務上責任のある地位にある教員や上司や他の大学関係者は、自分が責任を持つ学生や教職員と恋愛関係や性的関係を持つことは、相互関係について疑惑をもたれらり、セクシュアル・ハラスメントの申し立てに結びつくかもしれないということを強く念頭に置かなければならない。以上のことから、そのような人間関係を持つことがないよう強く警告する。」(191-192頁)(「中略」以降は『キャンパス・セクシュアル・ハラスメント――調査・分析・対策』の引用部分)
 
 「例えば、カルフォルニア大学(群)では、大学教員向けの規則ができ、「教員がある学生と学問的指導上の責任を持つ場合においては、ロマンティックなあるいは性的な意味において個人的関係をもつことは、それがたとえ同意の上での行為であっても、適切ではない。そのような行為は、教育過程の誠実を傷つける行為である」と明記されているそうだ。」(193頁)
 
 
メモ書き
○「「進学校でよく見られる適応過剰と言われるものですが、学校の成績がいい生徒は、学校や先生が持つ価値観を先回りして捉え、自分の思いとは別に、求められる価値観に過剰に適応してしまうことがあるということです」」(38頁)
 
○「「現在は教員採用試験で、思想的な偏向があったり、過激であるというひとは採用されません。そうした『逸脱』した人間は、出世面では教頭にもなれないし、もちろん校長にもなれないのです。生徒にとっても、学校現場にとっても、まったく面白くない状況になったことを意味します。ほとんどの教師は均一なサラリーマン化していますからね。(下略)」(96頁)

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2009年4月20日 (月)

柾谷洋平『北海道 化石としての時刻表』亜璃西社(ありすしゃ)(2009.02.26初版発行)

Dsc07832 鉄道の「時刻表」から見えてくる「特急や駅、過去の鉄路など」さまざまな話題を興味深く取り上げている。
 とても興味深く、また筆力もあるため、一気に読み終えてしまった。
 
 青函連絡船、北海道内の主要な路線の歴史、道内の時間的に最長の鈍行列車、北見峠・狩勝峠・塩狩峠の峠越えやトンネルに関する話題、時刻表に載っている広告などなどが取り上げられている。
 最後の「第五章 北の酒場にて」では、道内のいろいろな鉄道駅を人物に見立て、筆者も交えて、座談会形式で記述しており、とても面白かった。
 
 
 「化石」というのは、時刻表から「その時刻表を生み出した時代」が、あたかも「化石の読み取り作業」と同じように浮かび上がってくるからであり、さらに時刻表を比喩的に「人間社会の変遷を刻み、情報を後代まで伝えるもの」と見ることができるからであるという。(14頁)
 
 
 
メモ書き
○(稚内行きの)「列車は北の都をかすりもせずそっぽを向いて北端、南端を目指しました。」(80頁)
  :なぜ「南端」なのかよく分からなかった。稚内発函館行きの場合は「南端」を目指すから?
 
○「拙考を巡らす」:「そして、現在、筆者があれこれ拙考を巡らしているように、後世まで論争と思索の種を残していることから、難解で迂遠な哲学書とも考えられるのである。」(151頁)
 
○「あいの里教育大「っていうか、一番ありえないのはアタシたちの路線の名前じゃない? 学園都市線とか言うんだったらさあ、北海道医療大学サンとこで線路切っちゃうか名前変えてほしいよね」(245頁)
 
 
 
 

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2009年4月13日 (月)

水村美苗『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』筑摩書房(2008.10.31初版発行)

Dsc07833 読む前はタイトルだけで「これからは英語が国際語であり日本語は亡びてしまうという内容を表面的に素人的に扱っているだけだろう」と、勝手に想像していた。
 しかし、内容はとても深く、じっくりと読める本であった。
 
 これからは(既に)インターネットの発達などにより、英語が「普遍語」(=「国際語」)となり(「英語の世紀に入った」(239頁))、日本語は「現地語」にしかなりえず、「書き言葉」としての「日本語」は危機に立つことになり、何もせずにいれば「書き言葉」としての「日本語」は亡びてしまう。そうならないために、現在の危機的状況を正しく認識し、国語教育の在り方を考え直し、また、日本におけるあるべき英語教育の姿を示したもの。
 
 日本語を守ろうとする本である。
 
 英語教育では「平等主義」に別れを告げ(278頁)、「国民の一部がバイリンガルになることを目指す」(267頁)べきであるとする。
 「「国民総バイリンガル社会」を追い求めれば、日本の言語状況はより悪くなる。」(275頁)
 「インターネットの時代、もっとも必要になるのは、「片言でも通じる喜び」なんぞではない。それは、世界中で流通する〈普遍語〉を読む能力である。」(289頁)
 
 
 そして、国語教育では、
 「学校教育を通じて日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべきであるという当然の前提を打ち立てねばならない。」(285頁)
 
 これまでの(現在の)国語教育の誤りは、
 「国語教育の理想をすべての国民が書けるところに設定したということ、国民全体を〈書く主体〉にしようとしたということ――それは、逆にいえば、国語教育の理想を〈読まれるべき言葉〉を読む国民を育てるとろこに設定しなかったということである。ところが、文化とは、〈読まれるべき言葉〉を継承することでしかない。」(302頁)
 「日本は戦後五十年のあいだ、平和と繁栄と言論の自由を享受しつつ、知らず知らずのうちに自らの手で日本語の〈読まれるべき言葉〉を読まない世代を育てていったのである。〈書き言葉〉の本質が読むことにあるのを否定し、文化というものが〈読まれるべき言葉〉を読むことにあるのを否定し、ついには教科書から漱石や鷗外を追い出そうとまでしたのである。誰にでも読めるだけでなく、誰にでも書けるような文章を教科書に載せるという馬鹿げたことをするようになったのであった。」(304頁)
 「日本の国語教育はまずは日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべきである。」(317頁)
 
 
 (9割方)共感し賛成。
 
 タイトルの「亡びる」の意味に注意が必要だ。
 「私が言う「亡びる」とは、言語学者とは別の意味である。それは、ひとつの〈書き言葉〉が、あるとき空を駆けるような高みに達し、高らかに世界をも自分をも謳いあげ、やがてはそのときの記憶さえ失ってしまうほど低いものに成り果ててしまうことにほかならない。ひとつの文明が「亡びる」ように、言葉が「亡びる」ということにほかならない。」(52頁)
 
 この引用に既に示されているが、「日本近代文学」は(日本人はほとんど自覚していないだろうが)「その存在が、世界の読書人――その数はごくわずかでも、文学にとっては重要な、世界の読書人に「主要な文学」として知られるようになった」(232頁)ほどの「高み」に達していた。
 「日本のようにはやばやとあれだけの規模の近代文学をもっていた国は、非西洋のなかでは、見あたらない」(103頁)
 
 しかし、現在の文学は、
 「大衆消費社会の中で流行る文学は、そこに書かれている言葉が〈読まれるべき言葉〉であるか否かと関係なしに、たんにみなが読むから読まれるという本だからである。だが、それは確率的には、つまらないものが多い。」(237頁)
 
 
 「英語の世紀」の中では
 「英語が〈普遍語〉になったことによって、英語以外の〈国語〉は「文学の終わり」を迎える可能性がほんとうにでてきたのである。すなわち、〈叡智を求める人〉が〈国語〉で書かれた〈テキスト〉を真剣に読まなくなる可能性がでてきたのである。それは、〈国語〉そのものが、まさに〈現地語〉に成り果てる可能性がでてきたということにほかならない。」(255頁)
 
 
メモ書き
○「〈国語〉とは、もとは〈現地語〉でしかなかった言葉が、翻訳という行為を通じ、〈普遍語〉と同じレベルで機能するようになったものである。」(133頁)
○「学問とは〈読まれるべき言葉〉の連鎖にほかならず、その本質において〈普遍語〉でなされる必然がある。」(144頁)
○「〈自分たちの言葉〉で学問ができるという思い込みは、実は、長い人類の歴史を振り返れば、花火のようにはかない思いこみでしかなかった」(144頁)
○「日本語で学問ができるようになったということは、何よりもまず、日本の大学が、大きな翻訳機関、そして翻訳者養成所として機能するようになったことを意味したのであった。」(199頁)
 「日本の旧制高等学校や大学の主な役割は、英語、フランス語、ドイツ語という〈三大国語〉を教え、二重言語者を翻訳者として育てることにあった。」(200頁)
 
★メモ
「一ト月」(4頁):「一」の読みは「ひ」? (誤読を防ぐため)
「悪目立ちした」(25頁):ネットでは使用例はあるが、比較的新しい言い方か?
「熱気を熱く感じる」(48頁):これは揚げ足取り
「しかも、である。」(50頁)
「モンノ」:「モンのすごく」(「ン」は小字)(57頁)
「の前」:「一八六八年の前」(75頁)
     「フランソワーズは、第二次世界大戦のまえ、パリに住む若い娘でした。」(78頁)
「ぞいな」:「ラシーヌとはいったい誰ぞいな。」(86頁):参考「生きていますぞいな、このお人は」(中里介山『大菩薩峠』(白根山の巻))google検索
「初代文部省大臣」(182頁):単なる誤植
「カンカン」:「丁稚奉公やら船底掃除のカンカンをしながら」(229頁)


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2009年4月 6日 (月)

河村幹夫『ドイルとホームズを「探偵」する』日経プレミアムシリーズ(2009.01.08初版発行)

Dsc07762
 ホームズのいくつかの作品を取り上げながら、ドイルの経歴や当時の社会状況について記したもの。
 
 タイトルと内容とで若干のズレがないこともない。

 「「探偵」する」と、わざわざ「」書きで特別な意味を持たせようとしているのは、そのことを配慮してのことかも??

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