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2008年12月22日 (月)

定延利之(2008)『煩悩の文法―体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』ちくま新書(2008.7.10初版発行)

Dsc06957 副題が饒舌。しかし的を射ており、嘘偽りがない。
 
 日本語の文法の問題を、とても分かりやすく親しみやすく、やや饒舌気味に扱っている。
 
 体験を語る場合は単に知識を語る場合と異なった文法(言葉のきまり)があるんだということを、
 「四色ボールペン、北京でありましたよ。」(30頁)という文がなぜ不自然でないかということから始まり、そこにある文法をまさに「探索」しながら発見していく筋道を、まさに筆者の体験として語っている。
 
 つまり、「あとがき」にあるように「文法の世界を探索し、体感する楽しみ」(198頁)を実践している本である。
 
 
 
 「煩悩」というのは、
 「自分の体験を他人に語りたい」「体験談をやりたくてやりたくてしかたない」(19頁)という普通の人の気持ちのことである。
 
 そして、その「煩悩」に基づく「体験談」を語るために、「知識の文法」とは別の「体験の文法」(「ワクワク型の体験」=「探索」、「ヒリヒリ型の体験」=「体感」)があり、
 場所の「で」、「しょっちゅう」などの頻度語、「ばかり」、「たら」条件文、過去の「た」
 などの言い方で、二つの文法で違いがあるということを、分かりやすい例文や説明で示している。
 
 で、「探索と体感はなぜ、私たちの文法に、こんなにも関わっているのか」ということだが、
 「私たちが日々生きていく上で不可欠な「認知」という行動において、「環境とのインタラクション」が重要な位地を占めているからである。探索も体感も、このインタラクションの一タイプだからである」(171頁)というのようだ。
 
 
○「反実仮想の「た」は過去を意味しており、この運命の分岐点が過去であることを表している。」(106頁)
 
 
◎「テレビ的」な言葉の取り上げ方
 「もう一年以上前のことになるが、私はあるテレビ番組から出演の相談を受けた。(中略)別れ際に、「先生はテレビ的じゃないです」と、ダメ出しされてしまった(中略)
 私のどこがテレビ的でないのか。スタッフの言い分はこうである。
 
 ここに二つの言い方があるとする。
 同じような意味でどちらもよく使われているが、正しいのはどちらの言い方だろう?
 スタジオに集まったタレントがあれこれと意見を言い合う。だが結論は出ない。
 そこへ、ことばの専門家・定延が登場する。
 「先生、正しいのはどっちです?」
 定延が答えて言う。
 「どちらの言い方もよく使われていますね。ということは、どちらもそれなりに自然で、正しいということです」
 これぐらい、テレビの視聴者を不安にさせることはない、とスタッフは言う。
 テレビに出てくる「ことばの先生」は、
 「正しい言い方は、これです。そっちはダメです。皆さん、間違えないように注意しましょう」
 と言うものである。専門家がそう言ってくれて初めて視聴者は、
 「ああ、そうおなのか」と納得し、安心するのである。
 だというのに、おまえの話は、ことごとく、その逆をついているではないか。
 (中略)
 せめて、「最近は日本語の乱れが著しい。これも日本語の乱れの一つですね」ぐらいのことは言って、「日本語の乱れ」論あたりで調子を合わせてほしいのに、おまえは逆に、古い文章にも同じような例があることを持ち出してくる。
 (中略)
 これぐらい視聴者を不安にさせる話はないではないか。」(19-23頁)


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2008年12月15日 (月)

春日武彦(2008)『問題は、躁なんです 正常と異常のあいだ』光文社新書(2008.2.20初版発行)

Dsc07564 そうかと思って読んだか、そうでもないことが分かった。
 
 著者は、精神科医で、東京未来大学(こども心理学部)の教授。
 
 精神科医の立場から、「躁病」「軽躁状態」にまつわる様々な話を取り上げている。
 
 「躁」を構成する三大要素(全能感、衝動性、自滅指向)
 「躁」の作家や有名人の「奇行」
 「躁」が関係すると思われる犯罪・事件
 「暴走老人」たちの異常な行動と躁的心性との関連
 医学的な「躁」の診断
 などなど
 
 
 エッセイのような、あるいは、一般向けに「躁」への理解を深めてもらおうとする啓蒙書のような、何となく位置づけ、特徴がつかみにくい本だと思いながら読み進めていった。
 取り上げているエピソードは個々には興味深いものであるが、全体として、この本で何を言おうとしているのか、つかみにくかった。
 確かに、「躁」に関する理解は深まったが……。
 
 もしかして、この人は、そうなのか? とか冗談で突っ込みを入れたくなりながら、読み進めていった。
 
 そうしたら、「いささか長過ぎる「あとがき」」に次のように書かれてあった。
 
 「わたしが本書を著すに至った動機のうちでも大きなもののひとつとして、「俺は近いうちに躁状態を呈して自分の人生を陳腐な喜劇へ貶めてしまうのではないか、いやもうとっくにそうなっているのに自分で分かっていないだけなのではないか」という切実な不安があった。本を書くことでそれを押さえ込みたいといった気持ちがあった。しかし残念なことにマジナイの作用は生じなかった。ただし、せめて躁の実際について啓発を図ることで、わたし自身の醜態について先回りして釈明をする役には立ったのかもしれない。」(194頁)
 
 本当だろうか? 謙遜だろうか?
 やっぱり、そうだったのか?
 
 ところで、「躁」の診断項目の一つとして「多弁である」(167頁)ことが挙げられている。
 
 本書もそんな感じがするし、このブログもそんな感じがある。
 
 
 
メモ書き。
 
○「近頃の若者はどうか。非生産的なまま親に寄生したり、学歴も才覚も努力の痕跡もなかろうと、往々にして彼らは全能感を抱いている。なぜそのような「あつかましい」芸当が可能なのか。現在の自分が、本来の自分ではないと思い定めているからである。」(23-24頁)
 
○「うつ病となる人たちの多くは、「~ねばならない」といった紋切り型の価値観に縛られている。」(41頁)
 
○「精神科医としての個人的な印象としては、老年期にさしかかった途端にいきなり異様な精神状態を呈してしまう人が増えている。(中略)どうも二つのタイプが目立つ。
  第一は、ある特定の妄想にとらわれてしまい、だがその妄想を除けば他の能力は温存され、したがって認知症とか統合失調症とは考えにくいタイプである(男性に多い)。」(44頁)
 「で、第二は、躁状態である。」(46頁)
 
○「うつがどんどん深まり、ついに「うつ」の底が抜けるとどうなるか。躁へと突入する。つまり躁は「うつ」よりもはるかにシリアスな病状を示している。」(84頁)
 
○「早い話が、精神科的に問題があり治療を要するものの、具体的な病名を書くと診断書の提出先が誤解や偏見に基づいた処遇決定をしかねないため、予防手段としての「あいまいな」病名がすなわち「自律神経失調症」なのである。」(123頁)
 
○「ほとんどの精神科医が指摘する事実として、近年における精神疾患の軽症化と拡散が挙げられる。昔に比べて、典型的というか「いかにも」な精神症状がなかなか観察されなくなた。それは精神医療の敷居が低くなって早期に受診する人が増えたといった話だけでは説明がつかない。総じて軽くあいまいな病像を呈しがちで、それは診断を困難とし、事実上の誤った治療を招きやすい。」(123?頁)


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2008年12月 8日 (月)

一川誠(2008)『大人の時間はなぜ短いのか』集英社新書(2008.9.22初版発行)

Dsc07355 タイトルに惹かれ、さらに
 腹巻きの
 
 「年ととると、なぜ
  時の経つのが早いのか?
  
  楽しい時間は、あっという間に過ぎるのに、
  退屈な会議は、どうして終わらないのか?
  
  時間をめぐる身近な不思議を読み解き、上手につきあうヒントも伝授!」
 
 に惹かれ、買って読んでしまった。
 
 羊頭狗肉??
 「ヒントを伝授」ではなく、よく読むと「ヒントも伝授」のように「も」になっている。
 
 
 タイトルを工夫しタイトルで売ろうとする新書が最近とても増えているが、物には限度というものがあるであろう。
 
 もしも、私がこの本にタイトルをつけるとすると、
 
 『知覚様相の認知心理学―視覚・聴覚・時間感覚―』
 あるいは
 『時間感覚の不思議―実験心理学の知見紹介―』
 などが考えられるが、でも、このタイトルを新書に付けると、余り売れないであろう。
 
 
 タイトルで期待を膨らませすぎると
  期待はずれの本
  羊頭狗肉
 などと言われかねない。
 ただし、「期待」は読者が勝手にするものなので、著者に責任はないと言われれば、それまでだが……。
 
 
 ともかくも、最後まで読んだ。そして、ここまでの書きぶりで分かるように、言いたいことが山ほどあるのだが……。
 
 私の「期待」としては、
 「第5章 時間の長さはなぜ変わるのか」の章だけで十分だし、書名・腹巻きから思い浮かぶ内容も、この章の内容だけであろう。
 (4章までの知覚一般・錯覚などに関する概説は長すぎるし、6章以降の内容は一般的過ぎるように感じられた。「実験心理学者の役割としては、心的時間について理解されていることを紹介するだけで十分かもしれない。ただ、筆者自身は、自分の専門分野を超えたところまで主張し、議論を盛んにすることが、心理学自体の可能性の試すうえでも重要であると考えている」(198頁)とのことではあるが。)
 
 
 ただし、「第5章」の結論は、
 「このように、加齢が時間の長さの感じ方に影響を及ぼすことを示す研究は多い。現象としてはかなり安定したものといえる。ただし、この加齢効果の基礎にあるメカニズムはまだ特定されていない。心的時計や、新陳代謝の変化、注意の存在、ワーキングメモリーの機能低下など、様々な原因が考えられているが、こうした仮定の妥当性の検証や、これらの要因の相互作用における特性の理解については、今後の研究に委ねられているのが実情である。」(139頁)
 というものである。
 
 つまり、この本を読んで分かったことは、
 「大人の時間はなぜ短いのか」
 という理由は、
 まだよく分かっていないということである。
 
 まだ分かっていないということが、分かった。
 
 そして、読者は知りたいのは、「分かっていない」ということではなくて、
 やはり「大人の時間はなぜ短いのか」という理由である。
 認知科学(認知心理学)の実験結果ではない。
 
 
 折角読んだので、なんとなく役立ちそうな、あるいは面白そうなことをメモ書き。
○「この心的時計の進み方は、身体的および心的な活性度に対応していると考えられる。つまり、身体や心が活性化しているときや代謝が激しいときには、心的時計が早く進み、場合によっては物理的と計よりも速くなる。他方、代謝が落ちているときは、心的時計がゆっくり進む。」(120頁)
 
○「発熱しているときは、普段より身体的代謝が激しい。そのため、熱が出たときには普段と比べると時間がゆっくり進むように感じられる。」(123頁)
 
○「交通事故が起きた際に、そのときの目の前の出来事がまるでスローモーションのように見えたと報告するドライバーがしばしばいる。(中略)事故のときのように極度の緊張を感じる際には、心的時間のほうが物理的時間よりも速く進行する(したがって、目の前の出来事はスルーモーションのように見える)ことを示唆する研究はある。この研究では、バンジージャンプで真っさかさまに落下中の人に、手首に装着した高速で文字列を提示する液晶ディスプレーを観察させた。その結果、普段であれば文字が見えないほどの速さで素早く文字列を提示しても、落下中の観察者には文字が見えたことが判明したのである。この研究は、極度の緊張状態にあるときには血中のアドレナリン濃度が高くなることが、この現象の基礎にあることを示唆している。」(125頁)
 
○「通常よりも早いペースで歩くと、時間を短く評価する。逆に、通常より遅いペースで歩くと、時間を長く評価する。」(132頁)
 
○「個人の精神テンポは、歩くペースや会話の際の間合いの長さなどと正の相関がある。また、長い年月を経てもあまり変わらないこともこの精神テンポの特徴の一つである。先進テンポがどのように獲得されるのかは、まだ解明されていない。ただ、歩くペースに関しては、居住する都市の人口規模と正比例の関係にあることが、多くの研究によって報告されている。このことから、精神テンポはある程度は環境の影響を受けて獲得されている可能性がある。」(132-133頁)
 
●「人間の性格類型の一つに、時間に厳密であろうとする性格があることが知られている。いわゆる「タイプA」という性格である(中略)。このタイプAは、循環器系の疾患の発生と有意な関係があることが指摘されている。」(162頁)
 
●「人間が一つのことをやり遂げるにはどうしても一定の時間がかかる。その時間が技術革新や経験、学習によって、増えた欲望を満たすのに必要な時間以上に短縮されないとしたらどうなるだろうか。当然、潜在的な可能性に基づいて肥大する欲望のうち、実際に満たされるものは一部のみということになる。この場合、やりたいこと、やれるはずのことは数多くあるのに、なかなかそれが実現できないジレンマが生じる。
 そうなると、むしろ、できる事柄が少なかったころよりも時間が足りず、忙しく、やりたいことができないという感覚が強くなっているかもしれない。」(167頁)
 
★「時計の時間がなかなか進まないように感じる人、周囲の人がのろのろ作業しているように見える人の「生きている時間」は、時計の時間や他の人の「生きている時間」より速く進んでいるのかもしれない。」(193頁)
 
★「体験される時間の長さは体調によって変化するので、1分間をターゲットとした時間評定を、毎日同じ時間帯に行なうことで健康管理ができるということを提唱している医学者もいる。心的時間のこのような遅延は身体の代謝の低下と対応しているかもしれない。逆に、いつもより速く進むとしたら、代謝がいつもより盛んだということになる。」(195頁)
 
 


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2008年12月 1日 (月)

嶋﨑政男(20008)『学校崩壊と理不尽クレーム』集英社新書(2008.8.24初版発行)

Dsc07225
 著者は、中学校教諭、指導主事を経て、現在、中学校長。
 
 保護者からの理不尽なクレームに関して、その原因や対処方法などを、冷静に分析・分類している。
 
 「第二章で述べたコップ論で言うと、保護者クレームは、モラルの衰退、教師の権威失墜、教育のサービス業化、ストレス社会の進行、教師の多忙感の増大といった「原水」がひたひたと溜まるなか、保護者が、わが子が不利益を被ったり、厳しい状況に立たされたと感じたとき、その思いが一気に「誘水」となってコップに流れ込んだ結果、コップの水の流出(クレームの発生)が起こると考えられます。
 教師の初期対応のまずさや保護者の精神的不安定さなどが「誘因」となり、コップを傾けて水の流出を加速させる場合もあります。」(184頁)
 
 
 
 この本の特徴として、「保護者クレーマーの特徴」「保護者の養育態度四類型」「クレーマーの類型」など、詳細に分類していることが挙げられる。
 
 単に、実際の事例を列挙するだけでなく、総合的・俯瞰的に、現状を分析しようとしている。
 
 
 この本の一つの大きな特色は次の内容であろう。
 
 現在の「クレーム社会」の「原点」は、「校内暴力多発期」にあるとしている。(62頁)
 「一九八〇年代、全国の中学校で校内暴力の嵐が吹き荒れ」、「「何をやっても許される」。そんな幼児万能感に基づいた、身勝手極まる不条理がまかり通るのを見て育った世代が、「教師への反発・反抗は当たり前」という感覚をもつように」なり、「この世代が保護者となった」「一九九〇年代半ば以降」から「無理難題のクレームが増加した」というのである。(引用は59-61頁)
 
 「現在子育て中の親の子ども時代は、「自由に遊ぶ」「楽しく遊ぶ」ことが大切にされ、教師との関係も「お友達感覚」をよしとする傾向がありました。(中略)「子どもの気持ちを受け止める(受容)ことと、非なる行為まで受け入れてしまう(許容)ことを混同してしまった結果、大人になっても教師を尊敬しなくなった」との指摘は、広く教育関係者から聞かれる言葉です。」(79-80頁)のように、教師への「尊敬心」がなくなったことも指摘している。
 「校内暴力」が多発した時期に「多感な中学生期を送った人々に、「教師、尊敬に値せず」という強烈なメッセージが伝えられたのだと思います。」(83頁)
 
 これに関しては、様々な意見があるのではなかろうか。
 
 
 
○「学校は「公」の場です。「私」の論理を無理矢理押し通すことはできません。」(168頁)
 
 
 
●「保護者クレーマーの特徴」(46頁から)
 ① 誇張した表現  ② 権威の誇示  ③ 優位性の確保  ④ 内容の転換
 ⑤ 複数の苦情  ⑥ 激情の演出  ⑦ 「正義」の代弁  ⑧ 全員への強要
 ⑨ 巻き込み  ⑩ 不定期の再発  ⑪ 実利の獲得  ⑫ 刑法への抵触
 
●「クレーマーの類型」(143頁から)
 (1)問題指摘型(善意のクレーマー)  (2)子どもベッタリ型(溺愛型クレーマー)
 (3)関係保持型(依存型クレーマー)  (4)自尊型(自尊感情過多クレーマー)
 (5)敏感・神経型(敏感型クレーマー)  (6)欲求不満解消型(欲求不満解消型クレーマー)
 (7)攻撃型(愉快犯型クレーマー)  (8)理解不能型(混乱型クレーマー)
 (9)利得追求型(利得追求型クレーマー)  (10)無クレーム型(無クレーマー)
 
 (10)について
 「クレームがまったくないというのは、それを阻む高い壁が学校中に張りめぐらされている可能性があります。その状態がいつまでも続くと、不平・不満が増幅していくだけでなく、パートナーとしての保護者の意見を聴く機会をつぶしてしまいます。声なき声に耳を傾ける姿勢は大切です。」(163頁)
 
●「クレーム対応の「さしすせそ」」(189頁)
 「最初が肝心 しっかり傾聴 素早く動き 正確な記録をとって 組織で対応」(189頁)
 
●「クレーム対応の三原則「時・人・場所」の制限は譲ってはいけません。「○時から○時までの一時間、学校の応接室で、○○さんとお会いします」と約束したら、その約束はきちんと履行することが大切です。」(194頁)
 
●「攻撃型・利得追求型への対応」(194頁から)
 学校の応接室で ドアを開け放つ 名刺などで名前の確認 相手より多い人数で 書類の作成には絶対に応じない などなど
 
●「クレーマーの「三種の神器」は、議員・人権および法曹関係者・マスコミ関係者といわれます。」(47頁)
 
●「感情労働」:「昨今の特徴の一つとして、「感情労働」の増加を挙げる人もいます。「感情労働」とは、精神科医やカウンセラーに代表される、体や知識だけでなく、感情の移入を必要とする労働を指します。教師もカウンセラー的な対応をする場面では、「感情労働」に従事していると言えます。」(92頁)

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