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2008年11月24日 (月)

井上史雄・荻野綱男・秋月高太郎(2007)『デジタル社会の日本語作法』岩波書店(2007.7.26初版発行)

Dsc06956
 腹巻きには、
 「メール、ケータイのあるべき作法とは?
  社会言語学の目から見た
  “実用的”現代コミュニケーション論」
 とある。
 
 で、
 「要するに、メールの作法は今、形成途上にある。」(30頁)
 ということである。
 
 さらに、
 「使われる敬語は、従来の敬語の焼き直しでしかなかった。(中略)新しい人間関係が成立したことは事実だが、敬語は変わらなかった。変わる必要がなかったのである。」(160頁)
 
 ただし、
 「メールに関しては、いわば新しい敬語(丁寧さ)のルールが形成されつつある状態と言ってもいいのではないか。」(170頁)
 「返事を出すまでの時間が、相手に対する待遇を決めている面がある(中略)。もちろん、早い方が丁寧であり、望ましいことは言うまでもない。」(172頁)
 とのことである。
 
 
 
 「Ⅵ章 デジタル表現論 ―デジタル空間を浮遊することばとコミュニケーション」
 及び
 「Ⅶ章  デジタル対話論 ―イエ電からケータイへ」
 では、次のような内容を扱っており、最近の若者の行動がデータに基づいて分かりやすく書かれており、面白く読むことができた。
 大学生を対象としたアンケート調査(アドレス登録数や送受信数、電話使用、タイトルの使用・付け方、挨拶言葉の種々など)(留守電の使用、ケータイに出ない理由など)に基づいたケータイメールやケータイ電話の使われ方
 ウェブ日記での「(笑)」などの括弧付き文字列の使用や、
 電子掲示板における「名無し」の機能
 電話冒頭の名乗り方の変化
 
 
 
 ところで、この本は、どんな読者層を念頭に置きながら書かれているのであろうか。
 読みながら、不図疑問に思った。
 
 
 ところで、現在は、様々な情報機器・手段の発達・変化がすさまじい。この本は、現在の情報機器・手段に基づいているが、もしかしたら、この本の内容は数年後には古くなってしまうのであろうか?
 
 
改行1字下げ、パラグラフに関して、ちょっとメモ書き。
○「実例を見ると、大部分のパソコンメールは1文ごとに改行している。あるマナー本の「プライベート編」実例の大部分は1文ごとに改行している。「ビジネス編」もフォーマルな通知を除くと同様である。文の最初を1字下げるわけではないので、パラグラフを構成する意識はないらしい。パラグラフにあたりそうなところでは(それ以下の単位でも)1行空けることが多い。小学校以来の作文で習い、新聞・雑誌・小説などで目にし、ビジネス文章で使うはずの文章作法と、違う。ただし、大勢に向けた通知のメールでは、作文や出版物原稿のように、長いパラグラフごとに改行を入れるという形式が健在である。(中略)1文ごとに改行する習慣は、パソコンの画面で、読みやすいものが、自然に普及したと考えられる。」(42頁)
 
 
ビジネス心得に関して、ちょっとメモ書き。
○「会社の仕事の心得として「ほうれんそう」ということがある。上司や同僚への「報告・連絡・相談」が重要だという。」(44頁)(引用者注:「報告・連絡・相談」の「報」「連」「相」に下線あり)
 
 
電話の「もしもし」に関して、ちょっとメモ書き。
○「今でも、知らない人に声をかけるときに使われることがある。(中略)初期の電話では、眼前に見えず誰か分からない人に呼びかける行動が必要とされたので、「もしもし」が採用されたのだろう。」(49頁)

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2008年11月17日 (月)

中井浩一(2008)『大学「法人化」以後 競争激化と格差の拡大』中公新書ラクレ(2008.8.10初版発行)

Dsc07202 2004年度からの国立大学の法人化以後の変化の「実像」を克明に記している。
 
 「「甘ったれ坊や」(大学)は競争に勝ち、ひとり立ちできるのか。格差が広がる現実の中、連携や自立に向かう動きも含めて、ダイナミックに変化する大学の姿を最新データから描いた決定版。」(カバー・裏表紙から)
 
 総頁430頁。薄い新書の3、4冊分はありそうなボリューム。
 
 次のようないくつかのトピックに焦点を絞り、法人化以後、積極的に変化していっている大学をいくつか取り上げながら、その姿を描いている。
 第一章は「研究費の不正使用、論文捏造と利益相反」
 第二章~第四章は、「産学連携」について
 第五章は、「教員養成系大学」
 第六章は、「医学部、附属病院」
 第七章は、「地方国立大学」
 第八章は、「中央と地方」との格差
 
 ここで取り上げられている大学はそれなりにうまくいっている大学である。
 取り上げられていない大学はどうなっているのであろうか。
 
 
 「研究費の不正使用、論文捏造と利益相反」に関しては、基本的には「性悪説」の立場に立って、さまざまな制度設計を行うべきだということらしい。
 「敗戦後に「性善説」教育界を中心に広がった。これはもともとウソであり、虚構だったと思う。」(28頁)
 「新自由主義は、競争至上主義だが、それは人間の欲望の肯定を前提とする。競争は欲望が原動力になっているからだ。社会主義はその欲望の否定、または制限で社会を発展させようとした。結局、社会主義は失敗に終わったが、もし、人間の欲望を基本的には肯定して、その上に社会を構築することを決意するならば、その大前提にあるべき人間観は「性悪説」でなければならないだろう。
 私は、新自由主義や新保守主義には批判的な立場だ。しかしそうした表面的な経済問題を超えて、人間観という人間理解の根本的な立場が問われているのだと思う。人間観において、性悪説の方がはるかに深いと私は考えている。」(28頁)
 
 
 「産学連携」の推進に関しては分野を考慮する必要があると述べている。
 「産学連携が大学の使命だとしても、それは主に医学や工学系の話だし、そうした分野でも全体の二、三割の研究者に関係するだけだ。それをあまりに大きく言うことは間違いだろう。また直接的な産学連携には距離がある人文社会系の教育・研究が置き去りにされていなかったか。」(75頁)
 
 
 大学の本来の使命は「社会の教育」。
 「本来の大学が「社会の反省機能」として存在するならば、大学の使命とは社会を教育することではないか。第三の使命とされた「社会貢献」(産学連携)に対する「教育」とは、社会に人材を供給するという狭い意味でとらえられている。しかし、本来は社会を教化することこそがだいがくの使命なのではないか。そして、その使命達成のために、教員は研究し、研鑽を積んでいるはずではないのか。大学の本当の「社会貢献」とは、社会の教育であろう。」(159頁)
 
 
 「教員養成系大学」の教科専門の教員の問題点。
 「学部における新課程の拡大は、教科専門の教員には非常に都合が良かった。もともと教科専門の教員のほとんどが他学部の出身だ。専門学部に採用されず、しかたなく教育学部で教えており、教員養成に関心のない教員も多かった。新課程ができたことで、彼らは自分の専門に打ち込めるようになった。こうして教員養成への熱意は失われ勝ちになる。」(224頁)
 
 
 「教員養成」の規制緩和
 「昨今の規制改革の中で見直しが行われ、「教員養成目的学部」の抑制規定が撤廃されたのが〇五年三月。国は統制を止め、完全自由競争の世界に任せた。国公私立大学が自由な競争的環境のなかで教員養成を行い、そのことが教員養成の質の高まりにつながるとされたのだ。これによって、多くの私立大学が教員養成に参入してきている。」(229頁) 
 
 
 「教職大学院」設置と教科専門
 「文科省としては、教職大学院の設置をきっかけにして、各大学がその方向性を明確にし、研究者養成と職業人養成の機能区分をはっきりさせるように求めたのだ。大学院全体の再編制、さらには学部教育の見直しを求めている。ねらいは主として大学院の「教科教育専攻」にある。「教科教育専攻」の見直しによって、「教科専門」の位置づけも再考される。
  「教科専門」は、まさに教科(数学、理科、社会、国語など)の背景となる個別学問だが、それが、学校の「教科」に繋がることができていなとの批判が多いからだ。そして、主に「教科専門」の教員が行っている学部での「ゼロ免課程」についても、その意味づけの曖昧さや、その結果の教員養成系大学としての性格が曖昧になっているとの批判が大きくなっている。
  しかし、文科省の本意は「一律に『教科専門』や『ゼロ免課程』を廃止すること」ではない。むしろ、積極的に個別学問を教科に生かす方向もある。それを求める声を大きい。「教科の専門性の不足」の指摘だ。いずれにしても、文科省が求めているのは、各大学が自らの方向性を明確にすることなのだ。」(232-233頁)
 
 
●「特に、現在のように厳しい経営環境では、能力のない人間がトップに立ったら終わりである。」(333頁)
 
 
 
 メモ書き。
○「至上命題」
 「大学では競争的資金の獲得が至上命題になり、全教員に科研費申請を義務づけ、その成否で給与や研究費の査定をしている大学も増えている。」(17頁)
○「至上命令」
 「外部資金の獲得は、特に理工系の研究分野では至上命令であり、なりふりかまわぬ競争が展開されている。」(18頁)
 
 


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2008年11月10日 (月)

ステファノ・フォン・ロー[文]、トルステン・クロケンブリンク[絵](2008)『小さい“つ”が消えた日』三修社(2008.11.20初版発行)

Dsc07572  2週間前に取り上げた、下記の図書の復刻版。
 
   ステファノ・フォン・ロー[文]、トルステン・クロケンブリンク[絵](2006)『小さい“つ”が消えた日』新風舎(2006.11.15初版発行)(http://book-read.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/200620061115-b2.html
   
 
 「この本は、2006年に新風舎から刊行されたものに加筆し、復刻したものです。みなさんの声にこたえてかえてきました。僕の仲間たちもたくさん増えて、楽しくなったでしょう?」(奥付の頁より)
 
 「かえてきました」の部分の意味が分かりにくい。「かえってきました」の「小さい“つ”」がまた旅に出ているのであろうか。でも、「楽しくなったでしょう」では戻ってきているし……。
 
 ざっと比べてみると、
 表紙カバーのレイアウト・イラスト、内表紙レイアウト・イラスト、目次イラスト、本文イラストの色(緑色から茶色に)、本文イラストの差し替え、本文の加筆(小さい「や」「ゆ」など)、「復刻版によせて 小さい“つ”の夢は続く」の追加、巻末「五十音村のなかまたち」のイラスト付きの全員紹介の追加などの違いがある。
 
 手に入らない本と思って諦めていたが、本屋さんの店頭に並べられていたので、早速買った。
 復刻されてとてもよかったし、これから人にも薦められる。
 
 
 余談(この本の内容とはまったく関係ありません)。
 ところで、本屋さんで買ったのは11月8日。そして、奥付の発行日は「11月20日」。
 まあ、そんなものだといえば、そうでしょうが……。
 どうも、まだなじめない。
 

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2008年11月 3日 (月)

後藤和智(2008)『おまえが若者を語るな!』角川書店(角川oneテーマ21)(2008.9.10初版発行)

Dsc07312 「本書は、若者「論」の批判よりも若者「論者」への批判が中心になっている。そして、若者「論者」に対して、彼らの言説が、実証的な視点から見ていかに間違っていたか、若者論にどのような悪影響をもたらしたか、二つの視点から検討を行なう。」(「まえがき」11頁)
 という本である。
 
 
 「若者「論者」」への批判は、次のようにまとめられる。
 
 「結局のところ、権力者になって自らの主張で社会を変えたいという意志は極めて強いものの、それを支える根拠が弱く、また将来のヴィジョンも希薄であるから、権力を得たときの自分や、自分の弟子や信者、自分の世代の権益しか考えない議論ばかり繰り返している」(171-172頁)
 
 「第一に、若者論者の多くは実証的な研究やデータよりも、自らの実感やその時代の事件、及び若者報道に合わせて新奇な概念を捏造してきたこと、第二に、同じ主張の仲間内にこもり、その中でおかしな概念や物言いを流行られせては、さもそれが世の中の、あるいは社会学の最前線であるかのように振る舞って悦に入ってきたことである。
  そして第三に、彼らの「島宇宙」(中略)の中には、権力を持つことで自らの考えや政策を押しつけ、反対するものは社会の現実がまるでわかっていない、と排除する姿勢のものまで存在している。彼らに敵だとそしられる代表格は、かつては団塊の世代であり、現在は主に一九七〇年代以降生まれの若い世代だ。
  つまり、この一五年の間に多くの若者層や中高年、そしてメディアが、若者論者に「利用」されてきた、ということである。」(178頁)
 
 
 
 批判の対象としている若者論を余り読んだことがないので、どうしてこうムキになって批判しようとしているのか、最初はよく分からなかった。
 
 もともと、客観的な論拠や調査に基づいて書かれているわけではなく、都合のいい材料だけに基づいて、著者独自の価値観なり思い込みなりによって書かれた若者論なので、すなわち、もともと「科学的」「実証的」「客観的」でないことは分かりきっているので、最初から割り引いて読まなければならないのになあ……と思っていた。
 
 しかし、どうも、そうした若者論を真に受けて、それで政治や教育制度が動いているらしい。
 すなわち、「若者論が単なる「お話」に過ぎないどころか、その「お話」が権力と結託し、教育政策や治安政策などに強い影響を及ぼしている」(206頁)ということである。
 
 そうした影響を危惧した「若手社会学者」により「二〇〇五年頃から、メディアで消費されてきた青少年問題を、客観的、実証的な立場から反論する議論が盛り上がりを見せて」(206頁)おり、筆者はこの動きを支持している。
 
 さらに、筆者は、いたずらに、世代間で対立し合う無益な「世代論」をなくし、「世代論の枠組みだけで互いにいがみ合う、という状況はもう終わりにしたい」(217頁)と主張している。
 
 
 
 メモ書き。
 
 「ゆとり教育」「学力低下」に関連して「PISA」調査の結果を取り上げ、「他の国の順位や、個別の問題を一切無視して、ただ順位が下がったことだけを理由に学力が低下しただとか、今の子供たちは無能なのだと煽ることは、メディアの無能さの表出に他ならない。」(145頁)としている。
 日本より順位が高い国はフィンランドなど小国であり、アメリカやドイツなどの先進国や大国に比べれば日本は上位であり、「先進国の中で順位がほぼ同等ないしは上にあるのは、せいぜいカナダと韓国くらい」(144頁)ということである。
 また、順位の低い「読解力」も「実のところPISA実施国の平均と有意の差が見られない」(145頁)ということであり、「数学的リテラシー」「科学的リテラシー」の成績は「PISA実施国平均に比して有意に高い」(145頁)とのことである。
 確かに、新聞は、ある一部だけを取り上げ(その部分については確かに間違いではないが、そこだけが目だってしまう)記事にするので、順位が下がったということだけを強調し過ぎているのかもしれない。
 善意に解釈すれば、すべての科目の成績で日本が一位であるべきだと、新聞は考えているのかもしれないが……。
 
 
 
メモ書き。
○「少なくとも統計的に見れば、少年による凶悪犯罪の検挙件数は増えていない。」(19頁)

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