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2008年10月27日 (月)

ステファノ・フォン・ロー[文]、トルステン・クロケンブリンク[絵](2006)『小さい“つ”が消えた日』新風舎(2006.11.15初版発行)

Dsc07505 図書館で借りて読む。
 
 腹巻きによるストーリー説明。
 「  詩と森の国から届いた
    言葉の妖精たちの物語
  さまざまな文字たちがすんでいる五十音村で、音をもたない小さい“つ”は、ほかの文字たちからバカにされていました。自分は必要とされていないと感じた小さい“つ”は、ある日、村を飛び出してしまいます。すると新聞からもテレビからも小さい“つ”が消えてしまって……。」
  
  
 五十音村の住人たち、つまりすべての文字が「小さい“つ”」を探すことに追われたために、日本中で、すべての音・文字が消えてしまい、大混乱。
 しかし、五十音村の住人たちの秘策が実り、「東京見物」中だった「小さな「っ」」は無事、五十音村に戻ってきて、めでたしめでたしというお話。
 
 
 「音をもたない小さい“つ”」を主人公にしているということに興味をひかれ読んでみた。
 
 
 また、著者が外国人であるため、もともと外国語で書かれた物語を、日本語の五十音に当てはめて翻案したものかと思って読み始めた。
 しかし、著者は、日本語も堪能なドイツ人であり、舞台も「日本」。
 「英語で書いたものを、自力でつたない日本語に訳し、日本語の監修を岩田明子さんに、途中からは小林多恵さんにお願いしました。」(「おわりに」119頁)
 とのことである。
 
 「小さい“つ”」を主人公にするとは、促音「っ」の発音に苦労する日本語学習者ならではの発想である。
 
 「この本で私は、沈黙の素晴らしさを皆さんにお伝えしようとしました。」(「おわりに」119頁)ということである。
 
 
 挿絵も楽しいし、是非ご一読を。
 
 ただし、
 「詩と森の国から届いた
  言葉の妖精たちの物語」
 というのは、少し違っているような気がするが。
 
 ちなみに、本文でもタイトルでも「小さい」「っ」ではなく大きい「つ」が使われている。大きい「つ」は小さい「っ」の「お父さん」という設定だから、やはり本文にもタイトルにも、小さい「っ」を使って欲しかった。
 それとも、やはり小さい「っ」は目立たないから??
 
 
 なお、出版社の「新風舎」は2008年1月に破産した自費出版大手。
 
 現在、この本は、新書では入手できないようだ。
 
 
 ちょっと、メモ書き。
○「前々から発音されない文字があることを不思議に思っていた私は、音のない小さい“つ”を手にして、おじいさんにこうたずねました。」(11-12頁)
 
○「誰が一番えらいかはわからないけど、誰が一番えらくないかは知っているぞ。それは小さい“つ”さ。だって、彼は音を出さないからな。そんなの文字でもなんでもないさ」(36頁)


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2008年10月20日 (月)

竹内正浩(2008)『地図もウソをつく』文春新書(2008.8.20初版発行)

Dsc07224  「地図」にまつわる面白いエピソードがいろいろと書かれている。
 
 よくありそうな「地図」マニアような、確かに知らなかったが、それでどうしたの的な、マニアックな話題ではなく、軽くそして面白くそして知識にもなる話題がいろいろと取り上げられており、楽しく読めた。
 
 
 「地形図の上辺と下辺の長さが異なっている」(10頁)というようなことは、地理で習ったのかもしれないが、また、考えてみれば当然の話なのだが、意外な話で、こういう話を冒頭にもってくる著者のセンスはなかなかである。
 
 続いて、「札幌の街路がずれている理由」。
 「街路がずれた原因は、札幌本府が方位磁石を基準にしたために西に九度ほど傾いているのに対して、山鼻屯田が、北極星を基準にしたためといわれている。」(18頁)
 突然ローカルな話になるので、どうしてだろうと思ったが、著者は「北海道大学卒業」(奥付、著者紹介欄より)ということで、納得。
 
 
 「支那事変の勃発は、昭和一二年(一九三七)八月の軍機保護法の全面改正(強化)をもたらし、この法律などを根拠に、地形図の発売制限とともに、国内の地形図の大部分が更新されている。このとき実施されたのが、悪名高い「戦時改描」である。」(50頁)
  東京の地下を話題にした本でよく出てくる「戦時改描」がこんなところにも出て来てちょっとビックリ。
 
 
 「中小都市が連日空襲を受けるようになってもなお京都が大空襲に遭わなかった理由は、原子爆弾の投下候補地だったことに尽きていた。」(55頁)
   日本の伝統文化を守るためというような話も聞いたことがあるが、こういうことだったのか?? 常識??
 
 
 (キリバスの話題)「排他的経済水域の面積は、アメリカ合衆国、オーストラリア、インドネシア、ニュージーランド、カナダ、日本、ロシアといった大国に次いで、堂々世界第八位。」
   日本は、第七位。広いな。
 
 
 「日本人がほぼ共通して抱く「日本は狭い」ちう潜在意識も、北にロシア、西に中国、東にアメリカ、カナダという世界のトップから四位までの面積の国家に囲まれた配置の世界地図がもたらす、一種の錯覚という面があったのではないだろうか。視点を西方に移せば、EU(ヨーロッパ連合)加盟二七ヵ国中、日本より面積が広いのは、フランス、スペイン、スウェーデンのわずか三ヵ国しかない。ヨーロッパ諸国と比べれば、日本はむしろ広いほうなのだ。」(124-125頁)
   確かに、そう言われれば、そうだ。
   「日本は狭い」という固定観念は、いつ頃から、生まれたのだろうか?
 
 
 「日本の帝国陸軍も、明治中期から国外地域に関する地図整備事業に着手していた。そこで作成された地形図は、総称して「外邦図」と呼ばれた。」(155頁)
 「外邦図が扱うのは日本の主権が及ばない土地だから、職員は行商人・写真師・薬種商などに変装して、主要都市・主要交通路・主要河川などについて、歩測・目測・車馬の速度による概測、あるいは天測を行って実地調査していた。第三者から見れば、間諜(スパイ)となんら変わるところはなかった。目的を秘匿して治安のよくないところまで赴くわけだから、満洲では馬賊に襲撃されるなど、つねに生命の危険と隣り合わせだったという。」(156頁)   この本(→)にはそんなことは書いていなかったような気がする。
 
 
 「領土問題未確定の日ロ国境については、北緯五〇度以南の樺太や得撫島以北の北千島列島を帰属未確定とする日本の見解」(182頁)
   北方四島を日本の領土とする日本の見解は多くの人に知れ渡っているが、上記の「北緯五〇度以南の樺太や得撫島以北の北千島列島」は「帰属未確定」している日本の見解は意外と知らない日本人も多いのかもしれない。

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2008年10月14日 (火)

石黒圭(2008)『文章は接続詞で決まる』光文社新書(2008.9.20初版発行)

Dsc07357  「接続詞」を文章や会話で上手に効果的に使う方法や知識を、豊富な実例を交えながら、とても分かりやすく説明している。
 「接続詞の全体像を正しく把握」できると同時に「接続詞使用の勘どころ」が身につけることができる。(20頁)
 
 「接続詞」に特化した本というのは「類書」(245頁)がなく、とても面白く有益な本である。
 
 多くの頁をさいて書かれているのは、「論理の接続詞」(順接、逆接)、「整理の接続詞」(並列、対比、列挙)、「理解の接続詞」(換言、例示、補足)、「展開」(転換、結論)という接続詞の分類別に、それぞれの具体的な接続詞の細かい用法やニュアンスの違いを説明している部分である。
 また、先行文脈・後続文脈との何らかの関連を示す「~のではないか」「~だけではない」「~からだ」などを「文末の接続詞」としていることは、本書の独創であろう。
 さらに、「話し言葉の接続詞」という章を設け、対話で接続詞を使用するリスク(相手の発話権を奪う、言い方を訂正して気分を逆なでする、逆接の使用で無用な対立を生む、自己正当化を目立たせる)を示しているのも役立つ。
 「接続詞というと客観的・論理的な側面が重視されがちですが、本書では、それだけではなく、接続詞の主観的・解釈的な側面にも光を当てるように心がけました。」(245頁)とあるように、接続詞のあるなしで、あるいはどんな接続詞を選ぶかで、相手に与える印象が大きく変わるという例がいろいろと出ている。
 
 
 腹巻きにも載せられているが、自分が良く使う話し言葉の接続詞によって性格判断ができる(ようなこと)も書かれている。(188頁)
 
 「「てか」を好んで使う人は、すぐに新しい話題に移りたがる飽きっぽい人かもしれません」(188頁)
 「「ようするに」が口癖の人は、結論を急ぎたがるせっかちな人なのかもしれません」(188頁)
 「「でも」をよく使う人は、他人の言うことを素直に受けいれるのが苦手な頑固な人である可能性があります」(188頁)
 「「だから」を使いたがる人は、自分の主張を人に押しつけたがる押しの強い人かもしれません」(188頁)
 「「だって」を好む人は、言い訳が癖になっている、自己防衛本能が強い人かもしれません」(188頁)
 
 
 話し言葉ではほとんど注意をしていないが、言われてみると、確かにそうかなと思うようなこともいろいろと書かれている
 
 「「で、えーと」と来れば新しい話題が始まる、「で、あのー」と来れば話が核心に近づく、「で、まあ」と来ればそれまでの話の一応の結論が来る」(191頁)
 
 接続詞の変化についても、「近年」「よく使われるのが、歯切れのよさを感じさせる短めの接続詞です。具体的には、「なので」「なのに」「ガ」「と」「で」「てか」「って」などがよく使われます。」(192頁)というのを読むと、普段は余り意識しないが、言われれば確かにそうだなと思ってしまう。
 
 
 ただし、接続詞を単に使えばよいというわけではなく、使いすぎることによって、「文章の自然な流れをブツブツ切る」ことや「書き手の解釈を捺しつける」ことや「後続文脈の理解を阻害する」ことなどの弊害もあるそうだ。(198頁)
 
 
 いくつかメモ書き。
●「書き手の論理で書いた文章は、しばらく寝かせて、自分と切り離す必要があります。そして、自分と切り離せた段階で、他者の眼でその文章を読みなおし、他者の論理で推敲をする必要があるのです。」(39頁)
 
●「法律用語の場合は「AないしB」は「AからBまで」の意味です。」(106頁)
 
 
●「日本語で書かれた、接続詞に関する著作や論文は、これまで八〇〇以上発表されていますが(北海道教育大学札幌校のウェブサイトにある、馬場俊臣氏作成の接続詞関係研究文献一覧による)、その多くは他に専門を持つ人が試みに書いたと思われるもので、接続詞を継続的に研究に(ママ)している研究者はごくわずかです。」(16頁)
 
●「「また」の多用は、読み手にとって読みづらいだけでなく、文章構成が十分には練れ(ママ)ていないことを、読者に暗に伝えてしまうおそれがあるからです。」(97頁)
 
●「書き手の推論を読み手に明確に問う形なので、うまく使えていれば説得力が高まる反面、その推論に妥当性がないと感じられると、書き手の無理な解釈を押しつけられたような気がして、かえって説得力が落ちるおそれがあります。」(168頁)
 
●「小説に使われている文学作品」:「しかも、小説に使われている文学作品には、非常に効果の高いものも見られます。」(230頁)

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2008年10月 6日 (月)

草原克豪(2008)『日本の大学制度―歴史と展望』弘文堂(2008.4.25初版発行)

Dsc07228  明治期以降「戦前および戦後の高等教育制度の歴史を振り返りながら、その時々の主要な政策課題とそれに対する政府や関係者の対応」を辿り「大学政策の変遷過程を時間軸に沿いながら俯瞰」し、さらに現状の問題点と展望ををまとめた図書。
 
 「現実には教育学の立場から一点を深く掘り下げた専門的研究書はたくさんあっても、大学政策を広く社会的背景の中で歴史的にとらえ、しかも一般の読者向けにわかりやすく記述した書物は、どういうわけかあまり見当たらない。それならば、かつて文部省で大学行政を担当し、その後も私立大学の管理職として一貫して大学問題に関わってきた自分自身の経験も、少しは役に立つのではないか。そう考えて、教育学の専門家とは違った視点から大学制度に関する政策の展開をまとめてみたのが本書である。」(「まえがき」2頁)
 
 「日本の大学制度が、これまでどのような利害関係者によって、そのような議論を経て形づくられてきたのか、その軌跡をたどってみる。」(24頁)
 
 
 確かに、わかりやすく書かれている。なぜそういう制度になったのか、どういう経緯があったのかを、大まかにつかむことができ、大学制度の全体の流れを知る入門書となるであろう。
 ただ、文部省からの視点で書かれている箇所も多く、納得できない読者もいそうな気がする。
 著者は「1997年から拓殖大学北海道短期大学学長・拓殖大学副学長」(奥付・著者紹介欄から)ということである。
 
 
 新たに知ったこと、ちょっと注意を引いたこと、同感することなどメモ書き。
★認証評価に関して
●「マネジメントとの関わりでいうと、「評価にはコストが伴う」ということを強く意識する必要がある。「コストパフォーマンス」の意識を持つことである。コストとはお金だけではない。むしろ人的コストのほうが重要である。評価をする側もされる側も大学教員である。大学教員の本務は教育と研究にあるのであって、彼らの限られた時間と労力を評価にのみ費やすわけにはいかない。そのためにも、認証評価の実施に当たっては、評価の目的をできるだけ明確にし、それを達成するために必要最小限の作業にとどめるような配慮が必要であろう。いたずらに優先度の低い瑣末な作業に入り込まないことである。
  評価は重要だが、あくまでも手段であって、それ自体が目的ではない。目的は大学の質を高めることにある。そのためにどのような評価を実施し、その結果をどのように活用するのか。それが大きな課題であるといってよい。」(186-187頁)
 
○「たしかに教育の中身の評価はむずかしい。しかし、だからといって、教育の質を評価しないような評価にいったいどれだけの意味があるのだろうか。そのような認証評価のために膨大な人数の大学人が駆り出され、膨大な時間と労力を費やすのは、大学の希少資源の無駄遣いといわれても致し方ない。評価の評価が必要と言われる所以である。」(233頁)
 
 
★ポスドク問題に関して
○「一九九一(平成三)年の「大学院の量的整備について」と題する大学審議会答申では、今後は大学などの研究職に対するニーズは増えないが、実務に携わる高度専門職業人に対するニーズは増大するとして、大学院倍増の方針を打ち出していた。そのねらいは実務者養成のための修士課程の拡充であった。ところが実際に増えたのは、旧来型の研究者養成のための大学院が圧倒的に多かったのである。(中略)そのため文部科学省は、その後あらためて専門職大学院という制度をつくらざるをえなくなるのである。」(287頁)
 「こうして大学院生の数は増えたものの、それは結果的には、せっかく博士の学位を取得しても就職できないポスドク、すなわち博士浪人が増えるだけという深刻な事態を生み出すことにもなった。」(287頁)
 
●「日本においては、社会が博士を必要としていないのではない。必要とされるような博士を育てていないだけである。この点にメスを入れない限り、大学における研究者要請機能の向上は期待できないし、ポスドクの問題も解決されないであろう。」(289頁)
 
 
★制度の歴史などに関して
○「師範学校の専門学校化だけは一九四三(昭和一八)年に実施され、しかもそれまでの道府県立から官立へと格上げされている。」(68頁)
 
○「戦後の新しい大学制度は発足当初からいくつかの制度的な欠陥を抱えていた。画一化、一般教育の導入、管理運営体制の不備といった問題である。」(99頁)
 
 
★「国立」「私立」に関して
○「私学の経営は、規模拡大の戦略をとらない限り安定しないという宿命を背負っている。」(131頁)
 
○「役割分担についての私見を述べれば、国立大学は、将来の指導者を養成するためのレベルの高い文武両道のエリート教育を実施する責任を負わなければならないと思う。」(227頁)
 「私立大学は、良き社会人および専門技術者の養成という役割を担うことが期待されるであろう。」(227頁)
 
 
★「大学」の教育について
○(「大学」に小中高のような「学習指導要領」がないことについて)
 「個々の大学が提供する学習サービスの内容や水準は、大学によってさまざまである。受験生は、そのような多様な台g買うの中から自分に合った大学を選択するのである。そういう大学生に対して一律の学力水準を身につけるよう要求するのは、大学教育の基本を否定することになりはしないか。」(257頁)
 
●「いまや高校と大学の間には溝がなくなってしまい、高校生活の延長線上に大学が存在している。」(265頁)
 「今日の大衆化した大学にとっては、単に学問を教えるだけでなく、学生を一人前の大人として育てることも重要な任務のひとつになりつつある。」(266頁)
 
○「大学は知識を学ぶところではなく、学び方を学ぶ、あるいは思考力を身につけるところでなければならない。」(268頁)
 
●「卒業後すぐに役立つような狭い範囲の実務知識だけを教えるのでは、職業訓練機関と変わらないことになる。すぐに役立つ知識は、そのうちすぐに役に立たなくなってしまう。したがって、実務的知識・技術の基礎となっている理論、あるいはそれを支える幅広い知識やものの見方などを身につけることが重要になってくる。」(269頁)

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