池内了(2008)『疑似科学入門』岩波新書(2008.4.22初版発行)
「擬似科学」について学び知識を深めようとするための入門書ではない。
「疑似科学の手口を入門風に洗い出しながら、その弊害や社会的な影響を基本から論じることを目的としている」(202頁)本である。
著者は「宇宙物理学、科学・技術・社会論」専門の大学教授。
「科学を仕事とする人間として、科学を装った非合理に対して黙って見ておられない」(「はじめに」i頁)との意気込みで本書に取り組んだようだ。
本書では、疑似科学を3種類に分けている。
第一種擬似科学は、占いやスピリチュアルや擬似宗教など主として精神世界に関わり、人間の心理につけ込み、「科学的根拠のない言説によって人に暗示を与えるもの」(「はじめに」v頁)。
第二種擬似科学は、ゲーム脳やマイナスイオンや健康食品や統計的詐術など「科学を援用・乱用・誤用・悪用したもので、科学的装いをしていながらその実体がないもの」(「はじめに」v頁)。
この第一種と第二種だけであれば、一般的な批判はよくなされているので、余り目新しくないが、次の第三種疑似科学を加え、詳細に取り上げていることが本書の大きな特色となっている。
第三種擬似科学というのは、環境問題や電磁波公害や狂牛病、遺伝子組み換え作物、地震予知、環境ホルモンなど、「「複雑系」であるがゆえに科学的に証明しづらい問題について、真の原因の所在を曖昧にする言説で、疑似科学と真正科学のグレーゾーンに属するもの」(「はじめに」vi頁)。
そして、特に第三種疑似科学に惑わされないように「予防措置原則」(「未来の予測が不完全である場合、安全サイドに立ってあらかじめ手を打っておくという考え方」(185頁))が大切だとしている。
ところで、「第三種擬似科学」を疑似科学と見る考え方が疑似科学ではないかと不図思ったが、さすがに、その辺は、著者自身も気付いているようで、
「疑似科学と断じる私の方が疑似科学だと言われかねないと覚悟している。」(200頁)とのことである。
いくつかメモ。
○「人生は山あり谷ありだから、逆境の時期はそのうち去って好調の時期が必ず訪れる。幸運グッズを買おうが買うまいが、いずれ時期が来れば不調を脱することができるのである。しかし、本人は幸運グッズを買ったおかげだと思い込んでしまう。」(12頁)
こういう風にまだ思える時は、本当の逆境のときではない。本当に逆境の時は、「いずれ時期が来れば不調を脱することができる」などとは人から言われてもそんなの信じない。
○「予期に沿った情報は記憶しやすいが、反証となる情報には注意がいかないこともある。」(38頁)
○「今、心の教育と称して採用されている「水からの伝言」もその一種である。「ありがとう」と感謝の気持で水を冷蔵庫に入れると美しい形の結晶となり、「バカやろう」とか「死ね」というような相手を罵倒する気持で水の結晶を作ると不揃いのものしかできない、というのだ。「水はなんでも知っている」かのごとく、人の心まで映し出すと、学校ではまことしやかに教えられているらしい。」(51頁)
「学校ではまことしやかに教えられているらしい」とあるが、全国で何校ぐらいで実践されているかというデータも示してほしかった。
ところで、氷の結晶が「美しい形」であろうと「不揃い」であろうと、「氷」には違いないような気がするが……。(そういう問題ではないですね。)
○(第二種疑似科学を宣伝する)「手法は、(A)「科学的」に見せかけ、(B)それを権威ある者に保証させ、(A’)だからすべてに効能があると自信ありげに語り、(B’)それを多数の人間が証明する、という段取りになっている。」(59頁)
「科学」的な場合やテレビで評論家が出てくる場合も、形式的にはこれと同じであり、結局、「中身」が「科学的」かどうかという違いになっていくるのであろう。
○「事実、マイナスイオン効果はあっても微々たるものでしかなく、本質的に意味がないことが判明している。」(68頁)
マイナスイオンが好きなのだが……。
○「統計と異なる点は、確率はサンプルの数の間で必ず割り算をしている点だ。対象となった分子とともに、基数として採った分母に何を含めているかを吟味する必要がある。分子と分母と、操作できる数が二つあるだけ、統計よりごまかしやすいと言えるのだ。」(80頁)
○(「要素還元主義」の方法では困難で「複雑系」の科学が必要になる理由として)「三番目は、「量から質への転化」が起こりうることだ。多体系では、構成要素が独立に運動する場合だけでなく、集団的に揃って運動する場合がある。その集団運動が全く新しい質を生み出すのだ。このような場合は、個々の粒子だけでは解は得られず、初めから多数の粒子を並行して解かねばならない。全体を丸ごと捉える視点が必要なのである。群集が集まって気を揃えると、一つの集団となって大きな力を発揮するという喩え話がよく採用されるが、それと似た状況が発生するのだ。」(129頁)
○「科学者は研究を極めるほど謙虚になる。自分の無知さを知って謙虚にならざるを得ないのだ。その観点から言えば、知ったかぶりをする科学者はもはや研究をストップしており、それまでに得た知識を誇っているに過ぎないということができる。もはや過去の人であり、その知識は時代遅れになっている可能性が高いのだ。」(190頁)
●「実踐」(193頁)
なぜ、ここだけ旧字体なのだろう。
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コメント
国語の先生ですか?
投稿: さ | 2008年6月27日 (金) 22時38分