太田直子(2007)『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ』光文社新書(2007.2.20初版発行)
著者は、「一字や二字の増減で一喜一憂する」(111頁)映画の字幕翻訳を行う「字幕屋」。
「字幕」の翻訳としての特殊性(要約翻訳、)や苦労(無理解な人との苦闘?)が具体的に書かれていて面白い(具体的過ぎて、ここまで書いて大丈夫なのか?とも思うが)。
それだけでなく、現在の日本語の状況に対する筆者の観察・見解は、さすが日本語の一字一句に真剣に取り組んでいるだけあって、説得力があり、しかもそれを軽妙なタッチで書いており、とても興味深く読むことができる。
たとえば、
・「日本語に堪能な外国出身者」の日本語の大きな問題点(=もっとも難しい部分)は、「性別や年齢や立場の違いを表す言葉の使い分け」特に「敬語や女言葉」。
・メール文の「文法破綻・意味不明・内容お粗末」さ
・メールなどの文面から句読点が消えつつあり、その代わりを務めるのがスペース(一字空け)や絵文字・顔文字、☆などのマークであり、!や?の多用も目立つこと。
・新聞のテレビ番組表のなかに「!」「!!」「!?」が多用されていこと。(なんと、1週間分の新聞を調べている)(そのうち芸名やグループ名の中にも!や?が現れるのではないかと危惧(予想?)している)(「。」付きのグループ名は文がそこで切れるようで誤読しやすいそうだ)
・接頭語「お」の付け過ぎ(お受験、お取り寄せ、などなど)
・接尾語「さん」の使い過ぎ(社名+さん、パートさん、アルバイトさん、マクドナルドさん、などなど)
・「させる病」(目標を達成させる、会社を再建させるなど、「達成する、再建する」でいい)
・「いただく」(ふつうに「食べる」でいい)
また、最近、字幕ではなく吹き替えが好まれる傾向にあることを指摘し、その原因を「言葉の貧困」と捉えている。そして「語彙力・表現力の低下は、コミュニケーション能力の低下につながる。これすなわち幼稚化。コミュニケーション能力とは、だらだらしゃべりちらすのが得意かどうかということではない。深い思考を伴う本物の対話ができるかどうかということだ。」(209頁)
中高校の英語教育で育成しようとしている英語による「コミュニケーション能力」は、果たして、上記の意味のコミュニケーション能力であろうか?
もっとも、共感した部分は、「あとがき」に書かれている次の文言。
「制限字数内に要約するには心情を詠まねばならないのだ。」
要約することの難しさ、あるいは簡潔に表現することの難しさを述べている。1文字の増減に神経を遣う筆者の言葉として、実感がこもっている。
ところで、本のタイトル「字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ」のリズムが、どうも落ち着かない。だからこそ、逆に、奇抜なタイトルで興味を引こうとしたのだろうか。
教えられたこと、深くなっとくしたこと。
○「一秒のせりふなら翻訳文は四文字以内、二秒のせりふなら翻訳文は八文字以内、三秒なら十二文字以内……、つまり「一秒=四文字」を原則として、ひとつひとつのせりふに「要約翻訳文」つくっていく。」(22頁)
○「ときどき恐ろしい誤解をされるが、字幕翻訳者は映画のせりふを耳で聴き取って翻訳しているわけではない。ちゃんと原語台本というものがあり、それを辞書を引きながら読んで翻訳している。」(23頁)
○「映画の字幕では伝統的に句読点を使わない」(51頁)、「字幕では「。」に当たる部分を一字分空け、「、」は半字分空ける。そして文の区切りのいいところで改行する。」(53頁)
○「教科書や小説などでは明治時代から句読点が使われていたが、新聞や公文書・法令で句点「。」が使われるようになったのは、戦後らしい(読点「、」は使われていた。この情報は、朝日新聞のコラム「ことば談話室」(二〇〇五年七月二十四日)による。朝日新聞が句点(。)を全面的に使うようになったのは、なんと一九五〇年のことだとか。それまでは、「文の終わりは読点(、)か何も付けずに改行していた」そうだ。」(58頁)
○常用漢字表に忠実に従う限り「「わたし」を「私」とは書けない」(73頁)
○「ちなみに、われわれが神経を尖らせる用語コードで「こびと」は、差別的だとして避ける傾向にある。『白雪姫と七人の小人』は、実はヤバいのだ。」(75頁)
○(字幕原稿をチェックした在日アラブ人のことばとして)「「『アラー』は、英語のGODに当たる普通名詞です。『アラー』と書けばイスラム教だという考え方はまちがっています。キリスト教徒はアラブ人も、神のことをアラーと謂います。」(82頁))
○「「御社」という言葉で先方に心から敬意を表しているとはどうしても思えない。むしろ、慇懃無礼という言葉が浮かぶ。だいたい、本当に「御社」は世間で使われているのだろうか。わたしはテレビ以外で耳にしたことがない。」(105頁)
○(テレビ放送で、番組に対する「言い訳テロップ」は、画面に出ている時間に比べて字数が多過ぎることを指摘)「つまり、視聴者には絶対読みきれない短さなのだ。」(125頁)「「とりあえずこれを出しとけば、クレームが来たときに好都合だからさ」という、セコイ根性が丸見えだ。」(126頁)
○「最近、子を持つ友人から聞いて仰天したのだが、PTAの広報などで「子供」という書き方はだめらしい。「供」という文字は「供える・捧げる」の意味があるとか。「人身御供」をイメージするのだろうか。とにかく「子ども」か「こども」と書かなければいけないそうだ。」(129頁)
●「声がでかいやつが正しいわけでも優れているわけでもあるまい。ナントカほどよく吠えるというではないか。瞬間的に目立ちはしても、中身がなければすぐに飽きられる。」(65頁)
●「なによりもよくないのは、自分がたまたま詳しいジャンルについて、他人の無知をさも非常識だというように冷笑することだ。」(79頁)
| 固定リンク
« 吉田太一(2006)『遺品整理屋は見た!』扶桑社(2006.9.30初版発行) | トップページ | Sheldon, Sidney.(2001)"The Sky is Falling". Warner books, NY. »

コメント
TBさせていただきました。
映画字幕の大変さを思い知らされました。
投稿: タウム | 2007年10月 2日 (火) 19時59分